【赤毛のアン】想像力豊かな孤児、アンが、居場所を見つける物語。【赤毛のアンシリーズ】【小学校高学年以上】

2024年1月26日

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赤毛のアン ルーシー・モード・モンゴメリ/著

本当は男の子がほしかった老兄妹のもとに、手違いからやってきた孤児のアン。でも、アンは底抜けに明るい性格で、ふたりは次第にアンを受け入れてゆきます……

この本のイメージ あたたかい☆☆☆☆☆ 日常☆☆☆☆ 自己肯定☆☆☆☆☆

赤毛のアン ルーシー・モード・モンゴメリ/作 村岡花子/訳 新潮文庫

 名作中の名作、赤毛のアンです。
様々な翻訳が出ているので、読み比べてみるのも面白いのですが、文章の美しさではなんと言っても村岡花子訳です。かしこい子なら小学校高学年から読めると思います。大人、とくに働く女性にはいまでもおすすめです。

 これは、行き場もない「歓迎されなかった子供」が、自分の居場所を得て、いつしか人を支えるほうの人間になってゆくストーリーです。

 お話は、ものすごく大きな山や谷があるわけではなく淡々と日常が進んでゆきますので、もしかしたら「何が言いたいのかわからない話だ」と思う方もいらっしゃるかもしれません。けれども、一口で言うと、これは少女の自己実現のお話です。

 主人公アン・シャーリーは幼い頃に両親を流行り病で失ってしまった孤児でした。引き取られた家もかなり貧しい家で、学校には行けず小さな子供たちの子守をしていましたが、その人も死んでしまいます。その後も別の人の家に引き取られましたがまた手放され、孤児院にいたところを、マシュウとマリラの兄妹に引き取られるのです。

 マシュウとマリラは当初、力仕事など家の手伝いが出来る男の子を養子に迎えようと思っていました。けれども、手違いでやってきたのが、アンだったのです。

 女の人が大の苦手のマシュウが、馬車で駅に迎えに行くと、待っていたのが赤毛の女の子。
アンは、大変不幸な生い立ちでしたが、底抜けに明るい性格でした。「こんなはずではなかった」と思っていたマシュウが、馬車の中でアンのマシンガントークを聞きながら家に帰るわずかな時間で情が移ってしまうほどに。

 この、マシュウが迎えに来て一緒に馬車に乗っていく場面は、鮮やかな情景が流れるように美しく、読んでいるとアニメーション「赤毛のアン」のオープニングテーマが響いてきます。(アニメーション「赤毛のアン」をご存じない方のために、最後にリンクしておきます)

 わたしは、最近忘れっぽくなってしまったので昔読んだ本の内容も忘れてしまってたりすることがよくあります。でも、その場合、真っ白な心でもう一度読むと、新しい発見があったりするのです。「赤毛のアン」もそんな気持ちで読みました。

 大人になってから読むと、子供の頃ではわからなかったことがいろいろと見えてきます。
もし、あなたが小さい頃から本好きで、幼いころに年齢の割には早めに大人向けの小説を読んできた経験があるなら、もう一度同じ本を読んでみることをおすすめします。かならず新しい発見があります。

 今読んでみると、マシュウはあきらかにアスペルガー気質だとわかります。わたしのいる業界にもマシュウに似た人が多いので、彼の気持ちは小学生のころより今のほうが理解できます。まあ、よくぞ女の子を引き取れたと思います。子供の頃には思いもよらないことでしたが、今なら、馬車でアンを運んでいく道中、しみじみ「マシュウ、がんばったね…」と言ってあげたくなりました。

 そして、マシュウほどではないのですが、マリラも多少そのような感じを受けます。ふたりは、長いこと情緒とは遠いところで暮らしていたのでしょう。

 そして、アンは、あきらかにHSPADHDです。わたしがわりとアンぽい性格なのでわかるのですが、目に見えるものすべてを言葉に出してしまおうとするところや、親近感を感じた人に自分の感じたことをひたすら話してしまうところとか。

 わたしは、長いことオンラインゲームのサポートをしてきましたが、エンジニアにはアスペルガー気質の人が多いです。そして、クリエイターやサポートには、ADHD気質の人が多いです。そして、どちらにもHSPは多いです。この業界はHSPだらけです。(なので、HSPの人はクリエイターやプログラマーやエンジニアは向いていると思います。)

 「赤毛のアン」では、マシュウとマリラのカスバートきょうだいと、アンというまったく正反対の気質の人間が出会い、新しい家庭を築いていく過程が丁寧に描かれています。

 マシュウとマリラは、それぞれ、とくに取り決めもないのに「マシュウはアンを甘やかす係」「マリラは厳しくしつける係」と役割分担をしています。子供の頃読んだときは、マリラが慣れない子育てを必死でしているのにマシュウはのんきだなあ、みたいな感想でした。
でも、今読んでみると、子育てについて、マシュウがいちばん大切な部分を担っていたことがわかるのです。

 顔も思い出せない頃に両親を失い、いろんな人のところをたらい回しにされてきたアンを、いつでもどんなときでも完全に受け入れて肯定し続けてきたのはマシュウでした。マシュウがアンのぐらぐらした心の土台をしっかりしたものにしてくれたのです。

 このマシュウがね、本来なら神経が鈍く、細かいことには気がつかないような朴念仁な性格なのに、アンのことになると超人的なカンが働くのですよ。仕切り屋のレイチェル・リンド夫人が驚くほどに。(このリンド夫人のおせっかい具合と気遣いのバランスがこれまた絶妙なんです)

 それまでのアンは、貧しい子沢山の家に「子守になるから」と言う理由で引き取られてきました。マシュウとマリラの家にはほかに小さな子供などはおらず、男の子を欲していた家だったので、アンはまったくの「役立たず」だったのです。
つまり、アンは「役に立たないのに」カスバート家に引き取られることになり、皮肉にもそれが結果的に「無条件の肯定」につながって行くのでした。

 「役に立つから」「いてくれると得だから」アンが必要なのではなく、「アン・シャーリーだから」必要なのだと。まさに、ラスト近くでその言葉をマシュウがアンに伝えるシーンがあります。(以下引用)

「もし、あたしが男の子だったら、いま、とても役にたって、いろいろなことでマシュウ小父さんに楽させてあげられたのにね」とアンは悲しそうに言った。
「そうさな、わしには十二人の男の子よりおまえ一人がいいよ」とマシュウはアンの手をさすった。「エイヴリーの奨学金をとったのは男の子じゃなくて、女の子ではなかったかな?女の子だったじゃないか――わしの娘じゃないか――わしのじまんの娘じゃないか」

 たぶん、モンゴメリはこれが書きたくて「赤毛のアン」を書いたのだと思います。
子供の頃とは違う感情で、今はこのシーンで泣いてしまいます。

 今、お仕事やご家庭で頑張っている方、どうか、もう一度「赤毛のアン」を読んでみてください。まったく違う気持ちがやってくると思います。でも、とても励まされるし背中を押されます。

繊細な方へ(HSPのためのブックガイド)

 ネガティブな要素はほとんどありません。むしろ、感受性のするどい方へおすすめの本です。ふつうの方が読むより、より多くのことを感じるでしょう。一箇所だけ、熱病のシーンがあります。登場人物は快癒しますが、病気のシーンが苦手な人は避けてください。

休日に、足を伸ばして、温かい紅茶とともにぜひどうぞ。イチゴ水は日本では手に入りにくいので、ストロベリーティで。

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