【ドリトル先生】祝映画化!動物と話ができる、ドクター・ドリトルの不思議なサーカス【ドリトル先生のサーカス】【小学校中学年以上】

2024年2月13日

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ドリトル先生のサーカス ヒュー・ロフティング/作 井伏鱒二/訳 岩波少年文庫

たまにお金持ちになってすぐ貧乏に逆戻りしてしまうドリトル先生。航海での船の弁償に、家族の動物たちとサーカス団に入って稼ぐことを思いつきます。さて、ドリトル先生流のサーカスとは、どんなサーカスなのでしょう。2020年「ドクター・ドリトル」として映画化されたファンタジーの原作。

この本のイメージ 大逃亡☆☆☆☆☆ サーカス改革?☆☆☆☆ 劇場公演☆☆☆☆

ドリトル先生のサーカス  【ドリトル先生シリーズ 4 】 ヒュー・ロフティング/作 井伏鱒二/訳 岩波少年文庫

<ヒュー・ロフティング> 1886〜1947年。イギリス生まれ。土木技師を経て、1912年アメリカで結婚し、文筆活動に入る。著書にドリトル先生シリーズ。 

 井伏鱒二の古風な翻訳で、100年前のファンタジーが楽しめる、ドリトル先生シリーズ四巻目は「ドリトル先生のサーカス」。

ちょっぴり古い表現が多いですが、語彙力や読解力をつけるには最適。どうぞ親子で読んでみてください。


 今回は、アフリカへの航海で破損した船の弁償に、ドリトル先生が家族の動物たちとサーカス団に入団する、ドタバタストーリーです。

今回も、はげしいネタバレにならない程度にご紹介。いっさいネタバレが苦手な方は、このまま下までスクロールして最後のコメントだけ見てくださいね。

ドリトル先生、サーカス団に入る

 動物の曲芸や、曲芸師たちの芸で巡業する「ブロッサムサーカス団」と契約し、ドリトル先生一家はサーカスに出演することになります。途中で、結婚して幸せになった妹サラと出会い、「サーカスなんかで働いているのは絶対に秘密にして」と頼まれ、先生は「ジョン・スミス」(日本で言えば山田太郎みたいなもの)とあからさまな偽名を名乗ることにします。

 ドリトル先生は、前と後ろに頭がある不思議動物「オシツオサレツ」(原作では「Pushmi-pullyu」プッシュミープルユー)を目玉に、いつものドリトル一家が同行し、ブロッサム団長と雇用契約ではなく収入を半々で分けるレベニューシェア契約で契約。様々なマネージャー的仕事は、世渡り上手なネコ肉屋マシューとテオドシアのマグ夫妻が請け負いました。

オットセイと大脱走

 ところが、動物を愛するドリトル先生にとって、サーカス団の動物の待遇は耐えられないものばかり。ついに、オットセイのソフィーの脱走を手伝うはめになるのです。

 「ドリトル先生のサーカス」は、前半はオットセイソフィーとの大脱走エピソード。そして、後半はドリトル先生のプロデュースした動物たちの「動物劇」とサーカス改革となっています。かなりボリュームのあるお話です。

 子供の頃は、何にも考えずにわくわくして読んだのですが、大人になると、様々な社会問題も含めて大人の立場で考えてしまいます。

 ドリトル先生が、オットセイのソフィーを逃がす物語は、「ドリトル先生のサーカス」の前半の山場で、手に汗握るシーンの連続なのですが、このエピソードには、「物語としては面白いけど、現実にやってしまうとまずい」的な問題点もはらんでいます。

 いくらかわいそうと言っても、ペットショップの動物を勝手に放したり、他人の飼い犬や飼い猫を野山に放つわけにはいきません。だいいち、飼われることを前提に繁殖された動物は野生で生きていけないことが多いし、生態系を破壊する危険もあります。現実には難しい問題です。

 とはいえ、人間と大自然との付き合い方はこのままでもいいのか、と言う問題は、人類が存在する以上いつの世でも付きまとってきます。

 この本は、そういう、人間が文明と自然の双方に寄り添って生きていく以上、無視できないテーマをはらんでいます。

 今回のドリトル先生は、いつも正しいというわけではなく、わりと頑固でやっかいなところや、矛盾をはらんだところ、人間的な欠点もあらわれてきています。

 ドリトル先生はオットセイのソフィーを逃がすために女装させるのですが(かつてサルのチーチーも女性のドレスを着て船に乗りました。おそらく、100年前の女性はたいへんな重装備だったので、重ね着すればごまかせたのでしょう。おくゆかしいふりをしていれば、しゃべらないですみますしね)

 ソフィーが海へと続く川に身を投げたとき、ドリトル先生はご婦人を川に突き落として殺したと思われ、指名手配の殺人犯と間違われて逮捕されてしまいます。そりゃドリトル先生は指名手配犯ではないし、殺人容疑としては冤罪なのですが、他人のオットセイを勝手に海へ放流したのは、事実なんですよね……。

ドリトル先生のしくじり

そこで、偶然出会った判事が同級生だったので冤罪が晴れ、助けてもらうのですが、ドリトル先生のすごいところは、この同級生ウィリアム卿に、もののついでに狐狩りはいかんことだと説教し、最終的に妨害しちゃうんです。(そして帰りの馬車賃を借りる)

「狐一匹を多数の犬で追い掛け回して、それを大勢の人間がレジャーにするのはおかしい、狐狩りは廃止するべきだ」、と言うのがドリトル先生の主張です。いや、先生、でもその人に助けてもらってるんですけど……。

確かに狐狩りは貴族の遊びで、ちょっと悪趣味なところもあります。(狐狩りがどんなものか知りたい方は「キャンディ・キャンディ」を読みましょう)

 その後、ブロッサム団に帰ってきたドリトル先生は、オシツオサレツたちの活躍で大儲けしますが、今度は団長ブロッサムにお金を持ち逃げされてしまいます。
これも、ドリトル先生にも問題があって、毎日その日の夜にお金を分配する約束をしていたのに、逃げ回るブロッサムをなんとなく許してしまっていたのです。アヒルのダブダブは毎日せっついてたんですけどね。

 そういう無頓着さの報いで、お金は持ち逃げされ、サーカス団は置き去りにされ、未払い金だけが残ってしまったドリトル先生たちは、残ったメンバーで「ドリトルサーカス」を始めます。
もう動物たちは奴隷ではありません。みんなで協力して楽しく稼ぐサーカスです。

ドリトル先生が目指した世界

  と、ここまで読むと、これは比喩だな、となんとなくわかってきます。
たぶん、著者が書きたかったのは、ほんとうは動物の話ではなかったのでしょう。

 「ハックルベリー・フィンの冒険」で、ハックが黒人奴隷のジムの逃亡を手伝うとき、大きな葛藤をおぼえ苦しむ場面があります。100年前の西洋の文明社会には、わたしたち日本人の知らない様々な苦しみがありました。当時の世界では、黒人を奴隷として扱うのは「神様が許した良いこと」であり、黒人を逃がすのが「悪」だったのです。

 そのなかで、ロフティング氏は、苦しみながら自分なりの解決方法を模索し、おとぎ話として理想の姿を描こうとしていたのでしょう。

 もちろん、ロフティング氏自身は白人なので、理解しようと努力してもすこし勘違いしてしまっている部分はあります。(「ドリトル先生アフリカ行き」で、アフリカの王子様が白い肌に憧れ、「美しい白い肌になりたい」と願うところなど)
けれども、基本的に、すべての人間は、そして動物たちも、「対等でありたい」という強い気持ちは伝わってきます。
それは難しいことだし、100年経ってもまだまだたくさんの問題をはらんでいたとしてもです。

 ドリトル先生シリーズは、実は国によっては絶版になっている巻もあり、全巻を読める日本人はとても幸運なのです。井伏鱒二の古風な翻訳は、現代のお子様にはちょっとぴんとこないところあると思いますが、(ランプをちょうちんと訳してしまうところなど)イギリスと日本の、むかしむかしの雰囲気を感じられる、レトロな味わいがあります。

 ドリトル先生が全部読める、日本ならではのこの貴重な機会をどうぞ体験してください。

繊細な方へ(HSPのためのブックガイド)

 暴力シーンや流血シーンなどはありません。落ち込む要素もほとんどありません。ほのぼのとした動物ファンタジーです。かなりボリュームがありますので、ゆっくりのんびり時間のあるときにどうぞ。
濃い目のイギリス紅茶とビスケットをご用意くださいね。

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